マレーシア:多民族社会 上

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真っ白の雲を抜けると敷き詰められた絨毯のように樹木が辺りを覆い尽くす。 機首を下げると高度も下がる。それに比例して一面の緑が拡大され、木々が整然と並んでいることに気がつく。植民地時代の名残であろうか、油ヤシのプランテーションが産業の一角を担っている。

諸手続きを済ませ、空港の外に一歩足を踏み出すとじっとりとした湿気と暑さがまとわりつく。摂氏30度湿度75度、マレーシアである。クアラルンプール国際空港があるセパンから高速道路を通ってクアラルンプール市内に向かうと辺りの景色は一変し、大都市の様相に圧倒される。1時間ほど前はプランテーションがジャングルをなしていたが、翻ってここは一面のコンクリートジャングルであり、目に見える空の面積も狭く感じられる。このクアラルンプール自身も植民地時代の名残であり、イギリス植民地時代において大規模に開発された都市の一つである。

 

画像引用元:
http://f.hatena.ne.jp/SATOSHI_A/20071027211203

 

道行く人は各々英語、マレー語、中国語、タミル語などを話し、目に飛び込んでくる看板や標識にもそれは色濃く刻まれている。モスク、廟、ヒンドゥー寺院など宗教的建物がひしめき合っている。さながら民族の展覧会を催しているような光景と大都市の景観が相まってコスモポリタンな雰囲気を醸し出す。

 

画像引用元:
http://ttgasia.com/article.php?article_id=27093

 

都市化、国際化、工業化、多民族社会などアジアの優等生であるマレーシアを標榜するキーワードは枚挙に暇がないほどである。タイのバーツ価格急落に端を発し、1997年から1998年にかけてアジアを襲った通貨危機はスハルト率いるインドネシアの権威主義体制を崩壊させ、急速な民主化へと向かわせた。   一方マレーシアでは、マレーシア最大政党である統一マレー国民組織(UMNO)率いる与党連合(BN)が首尾よく自体を乗り切り、民主化という潮流と様々な政治的問題の中大きな影響力を持ち続けている。言い換えると、マレーシアはアジア通貨危機を乗り越えるだけの経済政治的体力を持っていたのである。
その力強さの源は政府の権限を最大限に引き出し、即断即決で物事を推し進め、それを迅速に実行に移すことが可能な構造にある。つまり権威主義体制というからくりがあるのだ。権威主義体制とは政治的決定権や政治権力が一人または複数の指導者に握られているという状態のことを意味する。

 


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http://www.jinzaihaken-portar.com/blog/%E6%94%BF%E5%BA%9C%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%B1%80%E6%B1%82%E4%BA%BA%E6%83%85%E5%A0%B1/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%94%BF%E5%BA%9C%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%B1%80%E3%81%AE%E6%B1%82%E4%BA%BA%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%82%92%E5%BE%97%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE3%E3%81%A4/

 

なぜこうした体制をマレーシアは築いたのであろうか。そしてなぜそれを民主化という世界的潮流にあって維持し続けてきたのであろうか。その答えの一つにマレーシアの多民族社会という特性とそれに付随する諸問題があると考えられる。経済発展とアジアの優等生という側面とともに多民族社会という特性もまたマレーシアを形容する重要な要素である。

 

画像引用元:
http://chaserz.org/y1m/it-is-not-racism/

 

マレーシアにおける民族ごとの人口比率はマレー人が約5割、華人が約2割5部、インド人が約1割となっており、多民族社会の典型例と言える。このことを反映しているのが先ほどの言語であり宗教である。言語や宗教はある部分では民族集団を規定する大きな要因となる。マレーシアにおける最たる例では、マレー人の条件としてイスラム教徒であることが挙げられる。また、皮膚の色や目の形といった外見的特徴も人々の日常的な区切りを規定するものである。外見的特徴には宗教を反映した物も多くあり、マレー人女性が頭からかぶるヒジャーブを想像すると理解がしやすい。こうした諸々の要素が絡み合って多民族社会を作り上げている。

 


画像引用元:
http://malaysiajp.com/information/about.html

 

多民族社会における社会問題として民族集団が内にこもって他集団と関わらないということが考えられる。つまり、排他的な社会を作り上げるということである。マレーシアの首都クアラルンプール、その中心地ブキットビンタンは多民族社会をあたかも絵にしたような様相を呈している。生きた民族博物館さながらの街並みに目を配ると、各民族集団がそれぞれに異なった職業に就く傾向にあることが分かる。 ホテルのカウンターといったサービス業や役所勤めの公務員ではマレー人が、小さな工場や携帯電話販売といった小型の商工業では華人が、レストランや換金業ではインド人の姿がよく見られる。こうした伝統的な産業や地域に根ざした産業では様々な形で民族ごとの分業が見られる。

 

画像引用元:
http://www.iccworld.co.jp/seminar/osaka/daigaku/malaysia/standard.shtml

 

民族ごとの分業が意味することの一つに職業形態ごとの賃金の差とそこから生じる民族ごとの平均所得の格差がある。この平均所得の格差、言い換えると経済格差は古くからマレーシアに存在し続け、これによって民族の分断が多分に維持され続けた。
経済基盤の強弱はどこから来たのであろうか。答えは植民地時代に遡ることで見えてくる。東南アジア島嶼部の重要な貿易拠点を占めるマレー半島はイギリスによる自由貿易の重要な拠点の一つとして捉えられた。シンガポールが最も顕著にそれを物語っているであろう。当初は貿易拠点、つまり港を押さえることが肝要であった。アヘンや茶の流通経路としてのマレー半島は他の植民地同様その重要性の中身が徐々に変容していった。貿易拠点、つまり点としてのマレー半島と東南アジアから中国沿海部にかけてのイギリス自由貿易のラインに位置する線としてのマレー半島からプランテーションや錫の採掘、そしてそれに伴う内陸部の開発を通して領域を支配する面としてのマレー半島へと変化した。

 

画像引用元:
http://www.malaysia-magazine.com/news/10927.html

 

中国沿海部との交易において中国人は古くから商人と苦力として大きな役割を演じてきたが、内陸部開発においても中国人は大規模で動員された。内陸部、言い換えるとフロンティアの開発には中国とインドから労働者が動員されたがマレー人といったマレー半島の先住民が動員されることはなかった。彼らの生活様式は開発事業には不向きと評されたためである。商人であれ、苦力であれ、フロンティア開発の労働者であれ、後に都市部となる開発された地域に集住し、マレーシア独立までの間に経済基盤を確かなものとした移民、特に華人と農村部に留まり経済的な基盤が不安定な先住民との間では「都市部対農村部」、「富裕層対貧困層」という図式が想像上の域であったとしても構築されるに至った。

 

八木暢昭

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